2016年 09月 05日
大槻ケンヂとの出会い |
ずっと聞いてきた大槻ケンヂのやってる筋肉少女帯
および特撮の思い出をアルバム毎に振り返りたい…
そう思って、まずは「出会い」から書き始めようと思う。
その前にひとつ断っておきたいことがある。
こういう記事を書くにあたって、資料にしようと思っていた本が見つからない。
たぶん人に貸したまま戻ってきてないのか
はたまた、家の何処かに眠ってるのか…。
無いものは無いと諦めて
書きたい気持ちがある今に書き始めるほうが大事だと思うので
自分の記憶を頼りに書きていこうと思う。
正確なことが知りたい人は、上の2冊を読めば
だいたいのことは載ってると思うので。
時は、1990年。世はバンドブームでした。
僕はその頃、ど田舎の高校生で
バンドなるものがブームなのは何となく分かっていたものの
ネットなんてまだ普及してなくて
せいぜいテレビで知るか
詳しいことを知りたければ
本屋とCD屋に行くぐらいしか、ツテはなかった。
僕が初めてバンドっていうものがあると認識したのは
深夜にテレビでやっているライブ情報の番組だった。
そこには「TRAIN-TRAIN」を歌ってる
ブルーハーツなんかが出てたように思う。
変な話なんだけど、僕はブルーハーツが怖かった。
理由は、その見た目なんだけど。
当時の僕の知りうる中で、その見た目に近いのは
学校にいるヤンキーぐらいなもんで
僕は、まったくヤンキーではなかったので
なんかバンドが流行ってると認識してたものの
ルックスがおっかなくって
とても自分とは相容れない存在だと感じていた。
しかし、気にはなっていた。
そんな中、テレビの画面で見たのが大槻ケンヂだった。
長い髪で暗い目をして、ぼそぼそと何か喋ってるけど
お笑いの人と一緒に、ちゃんとオチのある話をしてて
「まだ、この人なら大丈夫…怖くないから」という
妙な関心の持ち方を僕はしていた。
まあ、言ってみれば新人芸人みたいな見方をしてたんだと思う。
ちゃんと歌を歌ってるのを見たのは
和田アキ子と島田紳助が司会をしていた「歌のトップテン」だった。
曲は「元祖高木ブー伝説」で、ライブ会場からの中継だった。
「面白い歌を歌うなー」と思って、さらに気になった。
高木ブーと連呼する面白さに感心した、というよりは
ライブ会場からの中継ということもあって
ライブという場の熱気と、なんとも言えないアングラな感じが
自分にとっては新鮮に思えた。
当時、テレビ神奈川はロックブームに便乗していて
「ミュージックトマト」というPVだけを流す
30分の番組が平日の夕方に毎日やっていた。
さらに週に一度、若手のバンドが番組のためだけに
用意されたライブを客も入れて、
カメラを回して、それを流すという豪華な番組をやっていた。
ある日の番組欄に「筋肉少女帯」の名前があったので
僕は何となく番組を録画した。
そこに映っていたのは
前に「トップテン」で見た時以上に
ヒリヒリしたライブ感で
「これがロックのライブなんだ」と思った。
そして、曲間にインタビューシーンが挿入されるのだが
そのシーンがまた衝撃だった。
当時、筋肉少女帯は急速に売れた時期で
ハードなスケジュールをこなしながらのテレビ収録ということで
疲弊しきってたということもあったのだろう。
バンドのメインパーソナリティーである大槻ケンヂが
主に、インタビューには答えていたのだが
彼は答えてる間、ずっとあらぬ方角を見て、喋っていた。
目の前にインタビュアーがいるのに
インタビュアーの顔を見ることは、ほとんどなかった。
それは、やばい人そのものだったと思う。
「どんなライブがやりたいですか?」という質問にも
斜めの方向を見ながら「あー、…ビートルズみたいなライブがやりたいです」と返答し
「ビートルズみたいに、お客さんがわーとかきゃーとか言って失神して
ライブなんて聞いちゃいないんだけど、とにかく盛り上がってるような…」
そう言って、大槻ケンヂはまた斜めの方向を見ていた。
インタビュアーは少しの間のあと、「へぇ・・」と言っていた。
とにかく忙しくて精神的にちょっとおかしくなりかけてたのと
あと、体力的にもかなり消耗してる感じも見て取れた。
その直後にライブシーンに切り替わるのだけど
ライブになると大槻ケンヂは精力的に
大きな声でがなり立て、客を盛り上げ、
その姿は、まさに熱狂だった。
その落差にやられて、僕はその番組を見た翌日
筋肉少女帯のアルバムを買い揃えた。
当時の最新アルバムはメジャーデビュー3枚目である
「サーカス団パノラマ島に帰る」だった。
by n2u5k2o5
| 2016-09-05 17:47
| シリーズ・大槻ケンヂ